2017年02月27日
三方原台地と馬込川
前々回、馬込川の河口から舟で上ってきた古代の人たちが上陸した場所に赤門上古墳を造った可能性について触れました。
馬込川はかつては「小天竜」と呼ばれ、古代から天竜川の主要流路だったと考えられています。
また時代は下りますが、江戸時代から明治初期まで浜松から御陣屋川を経て浜北の内野まで舟便もあったそうです。
そうすると、水運が中心だった古墳時代に、馬込川の河口から遡った舟が三方原台地に近づく場所に舟を着け、土地の人たちと交流をおこなったと考えてもそれほど不自然ではないように思います。
そこで今回は古代の人たちの舟旅を追体験する気分で馬込川沿いを歩いてみることにしました。
まず出発点は、馬込川が国道152号と交叉する浜松市東区上島の馬込大橋です。
遠州灘の河口から浜松平野を遡った馬込川は、ここで大きく西に曲がり三方原台地に近づくことになります。
(地図中の「地図」ボタンをクリックして「地形」をチェックするとよりわかりやすいと思います)
三方原台地を正面に望みます。前方に白く見える橋が以前、大菩薩の坂・宇藤坂の時にご紹介した五枚橋です。
その五枚橋に来ました。
西を見ると宇藤坂、
北には左に大菩薩山、正面の橋は東名高速道路です。
今度はその東名のあたりから西に大菩薩坂、
少し先の城山橋では欠下城跡を直近に眺めながら進みます。
さらにその少し先の新北川原橋では冬の天気のいい日には正面に富士山を望むことができます。
馬込川は五枚橋から新北川原橋の区間で三方原台地に最も近づきますが、この辺りの台地の縁に浜松市最大の円墳である千人塚古墳を含む三方原古墳群の中心部分が存在するのが気になります。
ここから先、馬込川は少し台地から離れますが、
左前方の台地の縁には六所神社のある浜松医科大学の建物が望めます。以前書いたようにこの辺りには半田山古墳群がありました。
さらに遡った水神橋の上流付近は、かつて川幅20メートル、水深約5~7メートルのところがあり、川底は湧水が多く、冷たく渦を巻く淵があり水神淵と呼ばれていたそうです。
さらに上流の半田橋から北を望むと馬込川と御陣屋川の合流点があります。
合流点を御陣屋川に入った内野西橋の上流には、また三方原台地の縁が見え始めました。
新屋橋までくると、赤門上古墳を尖端とする台地を上流正面に望めます。
ゴールは中馬橋です。赤門上古墳は目と鼻の先ですね。
実際に江戸時代から明治初期まではこの辺りに舟が着いたそうです。
今回、馬込川沿いを歩いてみて、確証こそありませんが、古墳に水運が関係するのではないかという思いを強くしました。
というのも、同じ三方原台地の縁の谷でも馬込川や御陣屋川といったおそらく古代から存在した流路からの距離によって古墳群の密度に差があるようなのです。
このあたりはまた別の機会に掘り下げたいと思います。