2015年01月31日
浜松市市民ミュージアム浜北 歴史資料館(後編)
ずいぶん間があいてしまいましたが、浜松市市民ミュージアム浜北の歴史資料館常設展レポートの最終回です。
引続きパネルの説明をかいつまんでご紹介します。
古代:
7世紀後葉の白鳳期から平安時代にかけてこの地域では窯業が盛んだったようです。
まず、7世紀後葉に赤佐地区於呂で篠場瓦窯(しのんばがよう)跡で瓦の生産が開始されます。瓦生産は奈良時代にも継続して行われ、東ノ谷(ひがしのや)瓦窯跡からも奈良時代中葉の瓦が出土しています。
平安時代に入ると、麁玉地区の宮口で、灰釉陶器(かいゆうとうき)が生産されます。
9世紀後半に操業を開始した吉名(よしな)古窯跡支群をはじめ、大屋敷(おおやしき)・譲栄(じょうえい)・新池(しんいけ)古窯跡支群があり、宮口古窯群を形成しています。吉名古窯で生産された灰釉陶器は敷地郡衙(ふちぐんが)(中区伊場遺跡)、遠江国府(磐田市見付端城遺跡)へ供給されています。
また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字5年(761)7月19日の条には、麁玉河(天竜川)が氾濫し堤防が決壊したため、多くの人を動員して修築したと記されています。この堤防が天宝堤として、道本(どうほん)に残されています。
中世:
12世紀には、伊勢神宮の荘園の美薗御厨(みそのみくりや)が設けられました。美薗御厨は広さが500町歩(約495ha)あり、南は東区上石田、北は西美薗、西は内野、東は東区笠井と長上(ながかみ)郡の43村の範囲だったという説があるそうです。
鎌倉時代の12~13世紀には勝栗山墳墓群に多くの墳墓が築かれて蔵骨器(ぞうこつき)が埋納されました。この墳墓群は、奈良時代に創建され平安時代から鎌倉時代に権勢を誇ったと伝わる岩水寺と大きな関わりがあると考えられています。
南北朝時代の西遠江は南朝側の勢力範囲にあり、国人(こくじん)領主の井伊氏は後醍醐天皇の皇子宗良親王を三嶽城(北区)に迎え、北朝側の今川・仁木・高氏と戦いました。三嶽城の支城の大平(おいだいら)城も興国元年(1340)に落城し、南朝側の勢力は遠江においても衰退しました。
近世:
江戸時代のこの地域は、「青山領分絵図」に詳しく描かれております。この絵図は延宝8年(1680)頃、浜松藩主の青山氏によって作成されたもので、天竜川の本流(大天竜)のほか、天竜川の支流(小天竜)や中小の河川が平野を網の目のように流れていたことが判ります。また当時の街道などの道筋を知るうえでも非常に興味深いです。
3回にわたったレポートもこれでおしまいです。
この地域にもいろいろ引き出しあることがわかりましたので、個人的に今後さらに掘り下げていきたいなと思います。(おわり)
Posted by まるじゃが at 22:49│Comments(0)
│山辺日記