2018年03月31日
東京都台東区・摺鉢山古墳
上野動物園にパンダのシャンシャンを見に行った機会に、上野公園にある摺鉢山古墳に寄ってみました。
この古墳は現存長70m、後円部径43m、前方部幅は最大部で23m、後円部の高さは5mの前方後円墳で、約千五百年前のものと考えられているそうです。
ここもその立地がとても興味深いです。
今回はいつもの「地形」を✔しても、あまりかわらないのが残念ですが、上野は武蔵野台地の東縁にあり、上野駅のある山手線から東側はかつて縄文時代は海でした。
西側の不忍池はかつて石神井川が削った谷で、もともとは海につながっていたそうです。
またこの谷をはさんだ本郷台地には弥生という地名があって、ここはまさに「弥生時代」という名前の由来になった場所です。
太古の昔から人々の営みがあったんですね。
海岸線が後退して不忍池ができたのが、紀元数世紀頃と考えられているとのことですから、摺鉢山古墳が築造された時代にはまだ海とつながっていて、海上交通路のランドマークだったのかもしれません。
参考文献:『小地図と地形図で楽しむ東京の神社』(荻窪圭)
2018年01月29日
西尾市・正法寺古墳
愛知県の西尾市の国指定史跡、正法寺古墳に足を伸ばしてみました。
この古墳は全長94メートルと西三河最大の前方後円墳で、平成13-14年度の発掘調査によって、墳丘が三段の階段状に築かれ、斜面には葺石が施されていることが判明したそうです。
また南側のくびれ部には、祭壇として使用されたとみられる「島状遺構」も発見されています。
埋葬施設は未調査ですが、各段に立て並べられた円筒埴輪と、古墳の頂上に立てられていたとみられる家形、蓋(きぬがさ)形などの形象埴輪が出土しています。
古墳の築かれた時期は埴輪や墳丘形態の特徴から、古墳時代中期前葉(四世紀後半)と考えられています。
注目されるのはその立地です。
ここは矢作古川の河口に位置しており、三河湾が望めます。
現在でこそ海から1kmほど離れたところにありますが、築かれた当時は海に面していたようで、遠方から眺めると島のように見えます。
例によって下の地図の地形を✔していただくと、かつて海に面していただろうことがよくわかります。
ほぼ同時期には、伊勢地域に精巧な船形埴輪を出土した宝塚1号墳が築造されており、正法寺古墳の被葬者は三河湾と伊勢湾を結ぶ交通路を配下に置き、強大な勢力を有した豪族と考えられています。
正法寺古墳の東には乙川白山神社がありますが、ここは由緒板によると万治二年(1659)吉良若狭守義冬公(吉良上野介公父)により社殿再建されたようです。
正法寺古墳の墳丘がこの神社の本殿の後にあるのも気になります。
2017年12月31日
掛川市・瓢塚古墳、行人塚古墳
前回に引き続き、掛川市・和田岡古墳群を巡っています。今回は瓢塚(ひさごづか)古墳になります。
説明看板によると、瓢塚古墳は和田岡古墳群の中では各和金塚(かくわかなづか)古墳に次ぐ大きさで、前方部を南南西に向ける前方後円墳です。
古墳の規模は、全長63.0m 後円部直径 37.8m 後円部高さ 5.0m 前方部幅 25.2m 前方部長さ 25.2m 前方部高さ 3.5m、後円部の北東側には幅約7mの周堀が巡っているとみられています。
葺石は墳丘斜面全体に葺かれていますが、段築は確認されていないとのこと。
明治30年代に後円部墳頂が発掘され、埋葬施設は棺を粘土で覆った粘土槨であったと伝えられています。
この時出土した捩紋鏡 1、四獣形鏡 1、勾玉 2、菅玉 2、鉄剣片、鉄鏃片が残されており、またその後の調査等で円筒埴輪と壺形埴輪が出土しているそうです。築造は出土遺物から古墳時代中期初め頃と考えられています。
この古墳の立地ですが、春林院古墳のちょうど南約1km、原野谷川が削る段丘の東縁辺部に位置しています。
川が台地にぶつかるところに古墳があるというのは、三方原台地と馬込川と共通していますね。
南方は、原野谷川沿いの平地から小笠山までよく見通せます。
築造が春林院古墳と同じ時期ということになりますが同じ一族によるものなんでしょうか、それとも同じ時期に暮らした別の一族のものだったのでしょうか。
興味深いです。
また瓢塚古墳の北西約300mには行人塚(ぎょうにんづか)古墳という全長43.7mの前方後円墳があり、これは古墳時代中期の築造と考えられているそうです。
そうすると春林院古墳・吉岡大塚古墳の関係と同様に瓢塚古墳の一族の子孫だったりするのかでしょうか。想像が膨らみます。
ちなみに行人塚古墳は、西南西に前方部を向けていたそうですが、この方向には油山寺があります。これもまた何か意味深ですね…。
2017年11月30日
掛川市・吉岡大塚古墳
前回、掛川市・和田岡古墳群の春林院古墳を訪れましたが、今回は吉岡大塚古墳です。
説明看板によると、この古墳は前方部が西を向く前方後円墳で、和田岡古墳群では3番目に大きな古墳だそうです。
その規模は、全長 55.0m 後円部直径 41.3m 後円部高さ 7.2m 前方部幅 27.5m 前方部長さ 13.7m 前方部高さ 2.5m と後円部の大きさにくらべて前方部がきわめて小さく低いです。
実際、現地でこの看板を見るまでは円墳かと思いました。
墳丘のまわりには幅11.4mの周堀が巡っており、墳丘には葺石と埴輪が存在するとのこと。埋葬施設は調査されていませんが、墳丘と立地から5世紀中ごろに築造されたと推定されるとあります。
現在、古墳の整備工事を行なっているようですが、その完成後はこんな姿になるそうです。
この古墳の立地ですが、春林院古墳からちょうど西へ500mほどの所にあります。
つまり段丘の縁にあった春林院古墳とは対照的に、台地上の平坦な場所に突然ポツンとある感じです。整備工事の看板にあった写真がわかりやすいかと思います。
私の勝手な想像ですが、春林院古墳を築造した一族がその後、西へその活動範囲を広げたのではないでしょうか。
と考えながら地図を見ていたら、吉岡大塚古墳からさらに西の丘陵に宇刈神社というがありました。
ここは延喜式内社の真草神社に比定する説があるそうですが、もしかしたら春林院古墳・吉岡大塚古墳と何らかの関係があるのかもしれません。
折りをみてまた掘り下げてみたいと思います。
2017年10月31日
掛川市・春林院古墳
掛川市の春林院古墳を訪れました。
ここは以前、袋井市の大門大塚古墳の時に書いた原野谷川の上流にあたる国史跡の和田岡古墳群のうちのひとつになります。
説明看板によると、和田岡古墳群は原野谷川が形成した河岸段丘の南北約2.5km、東西約1.0kmの範囲に造営された古墳群で、古墳時代中期に築かれた前方後円墳4基と円墳1基が国の史跡に指定されています。
春林院古墳は、昭和38年(1963)に全面的な発掘調査が行われ、直径30m、高さ5mの円墳で、墳丘は二段に築かれ、斜面には葺石が葺かれているそうです。また埋葬施設は、墳頂部の南寄りで棺を粘土で覆った粘土槨が確認され、その大きさは幅1.35m、高さ0.95m、鎌倉時代の墓により壊されているため本来の長さは不明であるが、2.84mは残っていたとのこと。
粘土槨の中からは遺物は出土していないが、その北側から鉄剣1、槍鉋1、針数本が出土、また墳丘斜面から壺形埴輪の破片が多数出土し、墳頂部から直径50cmの穴に入れられた壺が出土した。出土遺物から古墳時代中期初め頃の築造と考えられる、とあります。
さて例によってこの古墳の立地ですが、名前の通り春林院というお寺の本堂のすぐ後、原野谷川の河岸段丘が飛び出したところにあります。
(「地図」の「地形」のチェックをどうぞ♪)
お寺の後の林が春林院古墳のある段丘になります。
段丘の下には原野谷川が迫っています。
古墳からは原野谷川沿いの平地がよく見通せます。
いかにも古墳(やお寺)を造りたくなるような場所だと、ひとりテンション上がっていました。
次回は同じく和田岡古墳群の中の吉岡大塚古墳に足を伸ばしたいと思います。
2017年09月30日
静岡市・ 谷田古墳群
静岡市の日本平動物園に行ったついでに谷田古墳群を訪れました。
静岡県立美術館のすぐ近くにある熊野三柱神社に隣接した公園内に谷田1号墳、52号墳、53号墳の3基が現存しています。
谷田1号墳は宮ノ後古墳ともいわれ、6世紀の後半の築造だそうです。この古墳は横穴式石室の円墳で、直刀、須恵器(杯、提瓶)、土師器などの副葬品が出土しています。
谷田52号墳、53号墳は1号墳よりも小ぶりな円墳です。谷田古墳群にはかつて50基以上の古墳があったことになります。
私が気になったのはやはりその立地です。
(例によって下の「地図」の「地形」にチェックを入れてみてください)
ここは日本平のある有度山から北西へ延びる丘陵の尖端にあります。
またすぐ近くを流れる吉田川は巴川を経由して清水港に注ぎます。
そうすると、ここも水運と何らかの関係があった可能性があります。
実際に現地に足を運ぶと、木で見通しは良くありませんが、平地を見おろす位置にあることがわかります。
谷田古墳群としてまだ4基ほど現存しているそうです。
この周辺はさらに多くの古墳が密集していますので、また訪れたいと思います。
2017年07月31日
袋井市・馬伏塚城跡
前回、袋井市の大門大塚古墳を訪れた際に、何やら史跡らしい看板を見かけたので立ち寄ってみました。
看板には「袋井市指定文化財 史跡 馬伏塚城跡(まむしづかじょうあと)」とあり、以下の説明があります。
「この城はいつ築かれたか明らかではありませんが、文亀元年(一五〇一)に遠江国守護であった斯波氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権をめぐって中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(袋井市久野)・天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果していたことがわかります。
城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春茂(春義・春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城(大東町土方)の城主も兼ねていたとされます。
今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。
天正二年(一五七四)六月十七日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、八月一日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげました。
城主には家康の重臣である大須賀康高を置き、天正九年(一五八一)に高天神城が落城するまで、天正六年に築かれた大【横?】須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めます。
しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正十年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。現在も小字名として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものとかんがえられらます。
城名の馬伏塚城の読みは「まむしづか」「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。」
『馬伏塚城と高天神城展』(袋井市教育委員会・掛川市教育委員会共催特別展)の資料によると城の構造は以下のようになっています。
「馬伏塚城は南北600m、東西160mの規模で、湿地に突き出た標高5mの舌状台地の先端にあります。今は埋められていると推定されていますが、幅10~15mの二本の大堀切により分断された、伝居屋敷曲輪と北の曲輪群、舟入曲輪より南は水堀に囲まれた南の曲輪群からなります。発掘調査の成果から南曲輪群は土塁に囲まれた防御性の高い曲輪群で、天正2年以降に徳川家康により墓地や寺院から改修されたことが判明しました。北曲輪群は二つの土塁に囲まれた曲輪があり、ここに天正2年以前の小笠原氏居館があったと推定されています。伝居屋敷曲輪は最も広い曲輪で、天正2年以前の小笠原氏段階では集落、徳川氏段階では兵の駐屯地としての曲輪になったと思われます。江戸時代の絵図(古城之図)からは、城の周囲に水堀跡の深田、土塁の存在が読み取れます。」
ここでも気になるのはやはりその立地です。
(例によって下の「地図」の「地形」にチェックを入れてみてください)
ここは小笠山から南西へ延びる丘陵の尖端にあります。
現在は周りが水田になっていますが、当時は三方を湿地や沼に囲まれた天然の要害だったようです。
城跡の場合、古墳とは違い史料や伝承で地政学的また戦略的な立地の検証をできるのが魅力ですね。
タグ :馬伏塚城跡
2017年06月30日
袋井市・大門大塚古墳
袋井市の大門(だいもん)大塚古墳を訪れました。
この古墳は直径25メートル、高さ4.5メートルを測る袋井市内では最大級の円墳で、古墳時代後期(550年頃)に造られたそうです。
明治16年と昭和61年に調査が行われ、古墳のまわりに周溝を巡らしていたこと、棺を納めた場所は赤色の顔料が塗られた川原石積みの横穴式石室であったことが分かったとあります。
また副葬品には銅鏡、刀、金張りの馬具、玉類、須恵器や土師器の土器類などが出土しているようです。
私が気になったのはやはりその立地です。
(例によって下の「地図」の「地形」にチェックを入れてみてください)
ここはエコパや法多山尊永寺がある小笠山から西へ延びる丘陵の尖端にあります。
また、松林山古墳のある御厨古墳群からは、太田川・原野谷川をはさんだ対岸と考えることもできそうです。
そうすると、ここも水運と何らかの関係があった可能性があります。
ただ実際に現地に足を運んでみると、現在は古墳が住宅に埋れてしまい、残念ながら周りの景色を見渡すことはできませんでした。
原野谷川の上流には国史跡の和田岡古墳群というのもあるようで、また機会をみて出掛けてみたいと思います。
2017年05月31日
古墳と神社の関係(7)
古墳や神社が細長く突き出る丘陵の先端にあることが多いのはなぜか、を追いかけています。
赤門上古墳出土の三角縁神獣鏡です。
前回もとりあげた森浩一氏の『ぼくの考古古代学』という著書には以下の記述があります。
「古墳時代(四-七世紀頃)の遺跡からは、多くの銅鏡が出土している。なかでも、最も種類の多い鏡が神獣鏡、神と獣の鏡である。ここでいう神とは、現在の住吉さん(住吉大社)やお稲荷さん(稲荷神社)などの神ではなく、中国流にいう東王父や西王母などといった仙人のことである。つまり、不老長寿をマスターして不老不死になった人、あるいは不老長寿をマスターしようとしている人だ。秦の始皇帝も晩年、不老不死にあこがれたという。中国では不老不死を理想とする物の考えが盛んであり、それが日本にも影響したのである。卑弥呼女王のころが、その時代にあたる。このような不老長寿の世界を、鏡背に文様で表したものが神獣鏡だ。日本では古墳時代の四-五世紀に多く作られ、古墳によっては、三十枚ほど出てくる鏡の大半が神獣鏡の場合もある。神獣鏡が表している信仰は、仙人の、不老不死の信仰である。仙人の理想の生活は、山や島にいることとされる。島といっても普通の島ではなく、蓬莱島のように山のある島である。」
「このため、古墳時代の人々は、山は仙人のいる場所であるという考えを強くもっていた。」
古墳時代にはまだ文字がほとんどなかったので、人々が実際にどんな信仰を持っていたのかあまりよくわっていないのかと思っていたのですが、三角縁神獣鏡が副葬されているということは少なくともこの時代に日本に不老不死の信仰が伝わっていたという証拠になります。
つまり死後に、仙人の理想の生活をもとめて山または島のように見える場所に古墳を造ったということも考えられるのかもしれません。
2017年04月30日
古墳と神社の関係(6)
以前、松林山古墳も太田川が磐田原台地にぶつかるところにあると書きましたが、久し振りに現地にでかけてみました。
太田川の方から西へ御厨古墳群を望むとこんな感じ、右端が松林山古墳です。
手前の田んぼはかつて太田川の流路だったのだと思いますが、松林山古墳は赤門上古墳と同様に目立つ位置にあります。
一方、考古学者の森浩一氏の著書『「東海学」事始め ―東海の歴史を歩く―』にも関連する記載がありました。
「静岡県磐田市の南方に、『万葉集』に大乃浦という地名がでている(一六一五番)。古代の地形を復元すると大きな湖で、湖は南方で海への出入り口がひらいていたと推定されるから潟でもあった。大の浦潟といってもよいし、磐田潟といってもよい。太平洋沿岸での数少ない潟の一つであったから、ここに港があって多くの人びとが住んだのであろう。大の浦潟の北岸には、静岡県最大の前方後円墳松林山古墳がある。尾張最大の前方後円墳の断夫山古墳が海にのぞんだ熱田に築かれているように、遠江最大の前方後円墳の被葬者も海の産業を掌握していたらしい。」
ここでいう大の浦潟は、松林山古墳の南西、現在の東貝塚あたりまできていたと考えられているようですが、そこにはかつて全長110mの前方後円墳である古墳時代中期の堂山古墳もありました。
古墳と水運、やはり関係が深いようです。
2017年03月31日
浜松市西区館山寺町・弘法穴古墳
浜松市西区館山寺町の弘法穴古墳を訪れました。
この古墳は舘山寺の裏山にある後期古墳で、主体部は擬似両袖型の横穴式石室とのことです。
またここは平安時代の弘仁元年(810)に、弘法大師が舘山寺を建立した際に仮堂として使ったとされ、21日間の修行中に自ら刻んだという石像が安置されています。
穴大師と呼ばれ眼病平癒の功徳があるそうです。
弘法穴古墳から少し登ったところには大観音があります。
昭和一〇年に建立された聖観世音菩薩像で、高さ16メートルあります。
私が注目したのはこの大観音の下の岩です。
舘山寺は三方原台地の西縁にありますが、通常三方原台地では河原石がごろごろしています。しかしここでは岩が露出しています。
この山は2億5千万年くらい前の古生代に形成された地層(古生層)でできているそうです。
山の西端にはとさか岩という赤岩もあります。
そういえば根本山のすぐそばにある火穴古墳も同じような赤岩で造られていました。
根本山やこの山の向かいにある大草山も同じ古生層の山が、洪積世(更新世)の天竜川の土砂の堆積である三方原台地の上に頭を出しているのだそうです。
山と岩と古墳、そして舘山寺の西隣には神亀四年(727年)鎮座とされる愛宕神社もあります。
冒頭で舘山寺の裏山と書きましたが、神聖な山である「舘山」の麓に舘山寺というお寺が建立されたということなんですね。
舘山寺がこんなに盛だくさんとは知りませんでした。
舘山寺温泉と言えば地元では超有名な観光地ですが、実際に舘山寺を訪れたことのある方はそれほど多くないのではないでしょうか。
2017年02月27日
三方原台地と馬込川
前々回、馬込川の河口から舟で上ってきた古代の人たちが上陸した場所に赤門上古墳を造った可能性について触れました。
馬込川はかつては「小天竜」と呼ばれ、古代から天竜川の主要流路だったと考えられています。
また時代は下りますが、江戸時代から明治初期まで浜松から御陣屋川を経て浜北の内野まで舟便もあったそうです。
そうすると、水運が中心だった古墳時代に、馬込川の河口から遡った舟が三方原台地に近づく場所に舟を着け、土地の人たちと交流をおこなったと考えてもそれほど不自然ではないように思います。
そこで今回は古代の人たちの舟旅を追体験する気分で馬込川沿いを歩いてみることにしました。
まず出発点は、馬込川が国道152号と交叉する浜松市東区上島の馬込大橋です。
遠州灘の河口から浜松平野を遡った馬込川は、ここで大きく西に曲がり三方原台地に近づくことになります。
(地図中の「地図」ボタンをクリックして「地形」をチェックするとよりわかりやすいと思います)
三方原台地を正面に望みます。前方に白く見える橋が以前、大菩薩の坂・宇藤坂の時にご紹介した五枚橋です。
その五枚橋に来ました。
西を見ると宇藤坂、
北には左に大菩薩山、正面の橋は東名高速道路です。
今度はその東名のあたりから西に大菩薩坂、
少し先の城山橋では欠下城跡を直近に眺めながら進みます。
さらにその少し先の新北川原橋では冬の天気のいい日には正面に富士山を望むことができます。
馬込川は五枚橋から新北川原橋の区間で三方原台地に最も近づきますが、この辺りの台地の縁に浜松市最大の円墳である千人塚古墳を含む三方原古墳群の中心部分が存在するのが気になります。
ここから先、馬込川は少し台地から離れますが、
左前方の台地の縁には六所神社のある浜松医科大学の建物が望めます。以前書いたようにこの辺りには半田山古墳群がありました。
さらに遡った水神橋の上流付近は、かつて川幅20メートル、水深約5~7メートルのところがあり、川底は湧水が多く、冷たく渦を巻く淵があり水神淵と呼ばれていたそうです。
さらに上流の半田橋から北を望むと馬込川と御陣屋川の合流点があります。
合流点を御陣屋川に入った内野西橋の上流には、また三方原台地の縁が見え始めました。
新屋橋までくると、赤門上古墳を尖端とする台地を上流正面に望めます。
ゴールは中馬橋です。赤門上古墳は目と鼻の先ですね。
実際に江戸時代から明治初期まではこの辺りに舟が着いたそうです。
今回、馬込川沿いを歩いてみて、確証こそありませんが、古墳に水運が関係するのではないかという思いを強くしました。
というのも、同じ三方原台地の縁の谷でも馬込川や御陣屋川といったおそらく古代から存在した流路からの距離によって古墳群の密度に差があるようなのです。
このあたりはまた別の機会に掘り下げたいと思います。
2017年02月01日
犬山市・東之宮古墳
愛知県の犬山市に出かけたら、国の史跡に指定された東之宮古墳というのがあるというので立ち寄ってみました。
この古墳は木曽川左岸の白山平山(海抜136メートル)の頂上に位置する前方後方墳で、説明看板によると全長約78メートル、後方部の一辺が47メートル、高さ8メートル、前方部は幅約43メートル高さ6メートルとあります。
また後方部の竪穴式石槨から三角縁神獣鏡をはじめとした銅鏡十一面、鍬形石、車輪石、石釧、石製合子、鉄製品など豊富な副葬品が出土したそうです。
古墳の築造年代は、墳丘をいまだ埴輪や周濠で荘厳にしていないことや、石室の中に割竹形木棺をおさめた葬法などから、古墳時代前期(約一六〇〇年前)のものと考えられ、現在、愛知県下で発掘された古墳では最古のものと推測されるとあります。
とくに印象に残ったのはその立地でした。
犬山城を大きく迂回する木曽川を見下す位置にあります。
前回書いた古墳と水運の関係を感じさせる古墳でした。
2016年12月31日
古墳と神社の関係(5)
「古墳と神社の関係」をテーマにいろんな仮説を巡っているこのスレッドですが、古墳や神社が細長く突き出る丘陵の先端にあることが多いのはなぜか、を調べているうちに行き詰ってしまいました。
興味深い仮説があれば追いかけていますが、古墳時代以前は文献資料がほとんど存在せずなかなか検証できないこともあり、諸説が粉々というかもはやなんでもありという感じです。
そんな中で少し違った切り口の本に出会いました。
長野正孝・著『古代史の謎は「海路」で解ける』、『古代史の謎は「鉄」で解ける』
著者は、元国土交通省港湾技術研究所部長。公務員時代は広島港、鹿児島港や「第二パナマ運河」などの計画・建造に従事。ライフワークは海洋史、土木史研究。とあります。
海と港湾が専門でご本人も「私は、歴史の素人であるが、」とかかれていますが、時代による航海技術の発展状況をもとに、神社や遺跡はかつての港の交易場の跡である、とかなり大胆な仮説を提唱されています。
興味のある方にはご一読いただくとして、私が面白いと思ったのは「古墳時代の三世紀中ごろから七世紀まで、五二〇〇基の前方後円墳が全国でつくられたが、長さ二〇〇メートル以上の巨大なものは三五基、…すべてが舟で行ける場所にあるか、水路を見下ろす、睥睨する場所にある。」という記述です。
つまり、古墳や神社が丘陵の尖端にあることと、水運による交易が関係があるのではないかということです。
確かに、まだ馬や牛が普及せず、また河川の治水も行われていなかった時代、水運による交通が中心だったとすると、丘陵の尖端の古墳はいい目印にだったに違いありません。
下は赤門上古墳の場所を示す地図です。
馬込川を遡り、支流の御陣屋川がちょうど三方原台地にぶつかるところに赤門上古墳があります。
(地図中の「地図」ボタンをクリックして「地形」をチェックするとよりわかりやすいと思います)
御陣屋川の新屋橋から北へ赤門上古墳方向の写真です。
上流正面に赤門上古墳を尖端とする三方原台地が望めます。
古代、馬込川は天竜川の本流だったとも考えられていますが、河口方面から上ってきた舟が上陸した場所に古墳を造ったというのはありえるような気がします。
そういえば、以前ご紹介した松林山古墳も太田川が磐田原台地にぶつかるところにありますね。
一般的には、古墳や神社が丘陵の先端あるのは、平野から仰ぎ見ることになり、そこにいる人々に被葬者や祭神の威信を示すためと説明されると思いますが、切り口を変えるとまた別の可能性が見えてきて興味深いです。
最後にちょっと気になった著者の言葉を記しておきます。
「どうも、この国の古代史研究は、大和朝廷の国土の統合と米作の農本主義の歴史観を前提としてはじまり、「農業民族としての日本」と決めつけ、それを前提に『日本書紀』や『魏志倭人伝』を読み解く学問として位置付けられ、現実とは違う国土観を恣意的に植え付けてきているように思われる。どうやら「歴史の既得権」が存在するようだ。」
2016年11月30日
浜松市浜北区平口・休兵坂
これまで三方ヶ原の戦いの時に武田軍が三方原台地に上ったとされる欠下坂および大菩薩の坂と宇藤坂をご紹介してきました。
今回はもうひとつ上ったとの言い伝えが残る休兵坂をとりあげます。
ここは記録にこそありませんが、武田の大軍が何隊かに分かれて軍を進め、そのうちのひとつがこの附近で兵を休めて涌き水で喉を潤してから、この坂を通って三方原台地に上った可能性があると考えられています。
さらに興味深いのは、武田軍が三方ヶ原の戦いに勝利した後、刑部で越年する前にこの辺りに陣を構えようとしたという記録があるようです。
「『武徳編年集成』巻之十三には…二十四日信玄遂ニ浜松ノ城ヲ攻ズシテ、平口村ヲ歴テ、引佐部刑部ニ赴キ、爰ニ越年ス。 とみえている。…平口は現在の浜北市平口。黄檗宗の不動寺のあるところ。三方原の東麓にあたるが、軍勢が通過しただけとすれば台地の上でよかったはずだが、宿陣を考えての行動であったとすれば、三方原と浜名平野とが接する場所で、飲料用の水が充分調達できるところでなくてはならなかったはずである。…こう考えると刑部に移動する前、武田勢が平口の辺りから新原にかけて駐留した可能性もあり、…」(『細江町史 通史編中』)
なぜこれから西へ向かうはずの武田軍が三方原東麓の平口に陣を構えようとしたのか理由は不明ですが、もしかしたら休兵坂という地名は、戦い終わった兵が休んだことに由来するのかもしれません。
平口や内野には武田軍の遺臣が土着したという家もいくつかありますので、いずれにしろ三方ヶ原の戦いとなんらか関係のある場所なのでしょう。
2016年10月31日
浜松市西区呉松町・亀塚古墳
浜松市西区呉松町の亀塚古墳を訪れました。
ここは以前、曽許乃御立神社に行って以来、何度も前を通りましたが、畑の中の土石置き場か何かかと思っておりました。
今回、近くの畑で作業されている方にお伺いして、ようやくこれが亀塚古墳とわかりました。
『浜松の古墳めぐり』(浜松市)によると、この古墳は六世紀前半の前方後円墳で、全長21m、後円部の高さ1.8m、前方部の推定幅9mとあります。しかしかなり原形が失われているようで、ぱっと見た所ではほぼ東西に長い長方形に見えます。
南側。葺石のようにも見えますが、これは近年土地の方が積んだもののようです。
西側。
北側。くびれのようにも見えますが…。
墳丘の上。西から東を望む。
東側の方が少し高いのでこちらが後円部でしょうか。
そしてやはり気になるのは根本山のほぼ真南にあるという点です。
何らか信仰があったのか不明ですが、少なくとも根本山を望むこの地で眠りたいという想いがあったのは間違いないでしょう。
また、曽許乃御立神社の東方、ほぼ拝殿が向いていた方向にあるのも気になります。
というのも以前書いた、赤門上古墳と内野神明宮や松林山古墳と鎌田神明宮のようにあたかも古墳に向って神社が建てられているように見える例があるからです。
今回は少し距離が離れていて微妙ですが、庄内半島の付け根の一番要の所に亀塚古墳があって、そこに祀られた祖先を遙拝するために曽許乃御立神社の拝殿が建てられたのかもと想像(妄想?)が膨らみます。
この辺りにはあと舘山寺に弘法穴古墳がありますので、また報告したいと思います。
2016年09月30日
浜松市東区有玉西町・大菩薩の坂・宇藤坂
前回、三方ヶ原の戦いの時に武田軍が三方ヶ原台地に上ったと伝えられる欠下坂をご紹介しましたが、今回は同じく上ったとされる大菩薩の坂と宇藤坂を歩きます。
まず、遠鉄バスの城山バス停から南へ向うと、東名高速道路の高架の手前に何やら標識があります。
近づいてみると「欠下城跡」とあります。
この辺りに中世の城があったそうですが、あまり詳しい記録は残っていないようです。
城山という地名の由来はこれなんですね。
さらに南に進み、東名の高架をくぐると、大菩薩の坂が見えてきます。
浜松市のサイトの大菩薩坂によると、
「本坂通(ほんざかどうり)にかかる字藤坂(うとうざか)の北側にある、平野から三方原大地に上る勾配の強い坂道。元亀3年(1572)12月、武田信玄が大軍を率いて三方原合戦に臨んだとき、天竜川を渡河し平野を横切り、欠下城(かけしたじょう)跡南側の大菩薩坂を上り、大菩薩山に陣を構えたといわれています。」
とあります。
この坂を上り切った辺りが欠下平。
ここに俊光将軍社跡があります。
これは坂上田村麻呂の息子と伝えられる俊光将軍を祀った社の跡ですが、現在は有玉神社の隣に祀られています。
その先から下る道が本坂通、いわゆる姫街道の宇藤坂。
県道261号線との交差点から見ると、確かに旧道っぽい雰囲気が漂っています。
宇藤坂を下っていくと馬込川につきあたり、そこに「五枚橋跡」の標識がありました。
かつての姫街道にはここに橋が掛っていたそうです。
前回同様、三方原台地の縁にはいろんな歴史が残されていて興味が尽きません。
これからも探訪を続けたいと思います。
2016年08月18日
浜松市東区有玉台・欠下坂
今回は、欠下坂を歩きます。
浜松北地域まちづくり協議会発行の『三方原物語』によると、ここは三方ヶ原の戦いの時に浜松城方面に向かっていた武田軍が急に西に進路を変え、徳川軍を三方ヶ原におびき出した際に台地に上った坂と伝えられているそうです。
まず遠鉄バスの有玉団地バス停から西へ欠下橋を渡ります。
道なりに歩いていくと、有玉団地公会堂の上のガードレールの脇に「信玄街道」の標識があり、ここがその道筋であることがわかります。
そのまま真っすぐ進むと、右手に常葉大有玉グラウンドの緑のフェンスがあり、道はその先から左へ曲がりますがこれは比較的新しい車道で、
こちらの右に入る細い方が旧道です。
この先は急な上りになります。
当時、三万近い軍勢が上ったとするにはあまりに細い坂です。
『三方原物語』には、同じ欠下平を基点に台地に上る「大菩薩の坂」と旧本坂道の「旧宇藤坂」に分散して上った可能性が示唆されています。
途中、常葉大のグラウンドが見下せます。この坂が三方原台地の縁に沿って上っていることがよくわかります。
あともう一息で先ほど分かれた車道に合流です。
上ってきた坂を振り返るとこんな感じ。浜松医大や有玉方面が見渡せます。
実は私はかつてこの道沿いのアパートに住んでいたことがあるのですが、こんな壮大な歴史があったなんて露知りませんでした。
坂を上り切ると、ななめ右の未舗装の細い道が追分方面に向う信玄街道の道筋だそうです。
この先はまた別の機会に辿ってみたいと思います。
2016年07月29日
浜松市東区半田町・滝洞坂
前回、かつて舟岡山の麓を通って三方原台地にのぼり奥山半僧坊に向う道があり、今でもその道筋を辿ることができると書きましたが、せっかくなのでこの機会に辿ってみることにしました。
この道筋は、特に明治期には天竜川以東や笠井方面から奥山半僧坊への参詣の道、いわゆる「半僧坊道」として栄えました。
今回は遠鉄の半田上バス停から赤松の鳥居までを歩きます。
半田上のバス停から西に、いかにも旧道っぽい槇の木の生け垣の細い道を進みます。
その先は一旦道が途絶えますが、カーテン王国の手前からかつて舟岡山の麓を通っていた道筋が現れます。
前回ご紹介した法源堂とトーチカを右手に見ながら進むと…、
これは前回も出てきた写真、浜松環状線に上書きされています。^^;)
しかし、その延長線上を望むとセブンイレブンの横の道につながります。
この坂道を上って行くと、滝洞坂(たきどうさか)の標識があります。
坂の途中に清水が滝のように流れる洞があり、滝洞と名づけられたそうです。この辺りは現在でも水が湧いています。
さらに上ると「犬の森」というドッグランもあります。
ここは環境がいいのでしょうか、結構遠方からもお客さんが来るそうです。
坂を上り切ると松の木が見えてきました。ここが今回のゴールの赤松の鳥居です。
赤松の鳥居は、幕末の頃に奥山を展望する方位に松を植え鳥居が建てられた半僧坊の遙拝所です。
ここで合掌すれば奥山を訪ねたのと同じご利益があるといわれ遠州の名所となっていたそうです。
戦時に敵の攻撃目標になるとの理由で一時撤去されたりしたようですが、戦後再興されました。
この道筋は台地の縁のため開発が遅れたのが幸いして残っているんでしょうね。
そういう意味でも三方原台地の縁はとても興味深いです。
2016年06月30日
浜松市東区半田町・法源堂
浜松市東区半田町の法源堂です。
この中には、この地にあった大智寺という黄檗宗のお寺を開いた法源禅師を供養する髪爪塔が納められています。
この辺りはかつて舟岡山(ふなおかやま)という山があり、その山の麓を通って三方原台地にのぼり奥山半僧坊に向う道がありました。
そのためかここには坂上田村麻呂が蝦夷地の反乱を平定した帰りに滞在し、大蛇との間に子供をもうけたという伝説が残っています。
また法源禅師は細江町の初山宝林寺の住職だった時に、黄檗宗をひろめるために浜名平野に出る際にたびたびこの道を通り、風光の美しい舟岡山に魅せられてこの地に大智寺を開いたとのことです。
ここには戦時中のトーチカも残されています。
これは本土決戦にそなえ三方原台地の上への進入を防ぐために築かれたようです。
いずれもこの道がかつては重要な交通路であったことを物語っているのでしょう。
浜松環状線(静岡県道65号)ができてからはすっかり裏道化してしまいましたが、今でもその道筋を辿ることができます。
機会をみてまた報告したいと思います。