2016年05月31日

浜松市東区半田町・六所神社


浜松市東区半田町の六所神社を訪れました。


ここは内野神明宮とともに遠江国長上郡の式内社である朝日波多加神社の論社となっています。

三方原台地の東縁にあり、社殿が東を向いているところが、歴史の古さを感じさせます。
また鎮座する場所はかつて朝日山と呼ばれ、鳥居や社殿には「朝日宮」の文字があり、朝日波多加神社と比定される根拠のひとつとなっているようです。



ただ、鳥居や社殿は明治になってから建立されたようでそれ以前の遺跡や伝承があるのか、個人的にまだ勉強不足です。

しかし、六所神社の西の台地の上、現在浜松医科大学がある辺りには、かつて6世紀後葉~7世紀前半に築造された六〇基近い横穴式石室の円墳が存在し、半田山古墳群と呼ばれていました。

6~7世紀の墓域と言えば、以前、曽許乃御立神社は他界(葬地)の入口だったかも、と書きましたが、もしかしたらこの六所神社も、と想像が膨みます。

そう言えば内野神明宮について、この地は古代の人々にとって他界との境界だったのかも、と書いたこともありました。

半田町の六所神社と内野神明宮、いずれも式内社と比定されておかしくないロケーションにはあると言えそうです。

ちなみに朝日波多加神社には他にも以下も論社があります。
・有玉神社(浜松市東区有玉南町)
・蒲神明宮(浜松市東区神立町)
・稲荷神社(浜松市南区飯田町)

謎めいているところがまた楽しいですね。




  


2016年04月30日

曽許乃御立神社


浜松市街から舘山寺街道を舘山寺方面に向かうと、フラワーパークの手前右側に鳥居だけが立っているのがいつも気になっていました。


調べてみたら曽許乃御立(そこのみたち)神社という式内社があるようなので立ち寄ってみました。

参道を進むと、もうひとつ鳥居がありその先は下り坂になっています。



下り切ったところには御手洗池(みたらしいけ)があります。
かつてはここで禊を行なってから参拝したのでしょうか。


御手洗池を過ぎると今度は男坂または女坂を上ります。


坂を上ると御神木の向うに社殿が現れます。なかなか趣きのある参道です。



由緒書によると、御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、神護慶雲元年(767年)、常陸の国に御鎮座される鹿島神宮の大神様が大和国御蓋山(みかさやま)(現在の奈良県春日大社)に向かう途次、当地の根本山にてご休憩された際に近郷の住民がその御神徳を慕って社殿を建設し、御分霊をいただきお祀りしたことが創建の縁起とあります。

面白いのは、この社殿は今歩いてきた参道の方(つまり南)を向いておらず、西を向いています。
神社といえば南や東を向いているものが多いですが、西向きは珍しいので神職の方にお伺いしたところ、春日大社の方を向いているとのことでした。
確かにここからすぐ西に三方原台地を下ると、浜名湖の内浦(浜松市動物園の入口前)で、旅立つにあたって西方を遙拝するのに相応しい場所に思えます。

ただ、以前火穴古墳の時に、6・7世紀の三方原台地南方から浜名湖東岸の人達の墓域は根本山周辺に設定されていたという説があると書きましたが、曽許乃御立神社の由緒に根本山が出てくるということはここが他界(葬地)の入口だったということも考えられるかもしれません。

…と思いながら、ネットをながめていたら許乃御立神社の東方約1kmかつ根本山のほぼ真南に亀塚古墳という6世紀代の前方後円墳があることに気がつきました。

これはまた行ってみなければなりません。






  


2016年03月26日

新城市・設楽原歴史資料館


豊田東まで延伸した新東名の長篠設楽原パーキングエリアに寄ったら、なんと敷地内に長篠・設楽原の戦いの織田信長の本陣跡がありました。


そこでこれを機に新城市の設楽原歴史資料館を訪れることにしました。


ここは天正3年(1575)5月、武田勝頼が織田・徳川の兵と戦い、その後の武田氏と織田氏の時代の交代の画期となった場所です。

通説では、当時最強と謳われた武田軍に対し、織田・徳川連合軍が火縄銃にて対抗したとされ、資料館には当時の火縄銃が展示されています。


また武田騎馬軍を防いだとされる馬防柵も展示されています。


資料館の屋上に出ると、今でも当時の戦いの舞台を一望できますが、そのあまりの近さにより現実味を感じます。

白い三角の右が織田本陣があった長篠設楽原パーキングエリア
正面の森が徳川本陣の弾正山
手前が武田軍の信玄台地

当時の地形を未だに体感できる貴重な場所だと思います。



  


Posted by まるじゃが at 23:37Comments(0)三河

2016年02月29日

名古屋市・白鳥塚古墳


名古屋に行く機会があったので、以前ご紹介したしだみこちゃん・埴輪氏武ゆかりの歴史の里 国史跡 志段味古墳群の白鳥塚古墳に出かけました。


この古墳は4世紀前半につくられた前方後円墳で、志段味古墳群の中で一番最初につくられた古墳の一つだそうです。
墳丘の長さは115mで愛知県で3番目とのことですが、赤門上古墳が56.3mなのでほぼ2倍ということになります。後円部が前方部に対して非常に高いという古い時期の前方後円墳の特徴も赤門上古墳と似ていて興味深いです。


写真がわかりにくくて恐縮ですが、スロープがあるところが後円部、真中がくびれ部、その左が前方部です。

今回は時間が限られていたのでとりあえず下見というところでしたが、次回はじっくりと時間をとって志段味古墳群散策コースを巡ってきたいと思います。




  


Posted by まるじゃが at 23:10Comments(0)旅日記尾張

2016年01月31日

大屋敷古窯跡群・北新屋B古墳群発掘調査現地説明会


1/10、浜松市浜北区宮口において大屋敷(おおやしき)古窯(こよう)跡群と北新屋(きたあらや)B古墳群発掘調査現地説明会が開催されました。

ここは国道362号バイパスの整備のため2015年11月から発掘調査が行われおり、今回の調査では平安時代に陶器を焼いた窯の跡や、古墳時代終末期に築かれた古墳の石室が発見されたそうです。

大屋敷4号窯


出土した灰釉陶器の特徴から10世紀後半~末頃に使われていたと考えられるそうです。
天井部や焚口、灰原は失われていましたが、焼成室の部分がみつかりました。窯の壁は粘土を貼りつけて、その外側の土は熱によって赤く変化しているとのこと。
まだ、陶器が残っているのはどういう事情だったのでしょうか。

北新屋B5号墳


墳丘は確認できないようですが、7世紀代の全長4.8m、幅1.0mの横穴式石室で、石室内などから須恵器が見つかったそうです。


この他に石室の両袖に石を立てた北新屋B6号墳も公開されていました。

この周辺では過去に平安~鎌倉時代の陶器を焼いた窯跡が約30基確認され「宮口古窯跡群」と呼ばれています。また、台地・丘陵の縁辺や斜面からは古墳時代後期~終末期に築かれた古墳が多数確認されており、今回の調査の成果もこれらの一環と考えられるとのことです。

これらの遺跡のほとんどが新東名の建設や開発によりすでに消滅しており、今回も調査が終わり次第、なくなってしまうことになるのは何とも残念なことです。

ちなみにこの場所も三方原台地から河岸段丘への斜面部にあたります。


  


Posted by まるじゃが at 23:26Comments(0)遠州山辺の道宮口

2015年12月31日

滝峯不動尊


浜松市北区細江町の滝峯不動尊を訪れました。


この場所は以前ご紹介した滝峯才四郎谷遺跡岡の平遺跡のある谷の支谷にあたります。

ここを訪れたのは『湖の雄 井伊氏(公益財団法人静岡県文化財団)』の中の以下の辰巳和弘氏の記載を読んだからです。

「わたしが注目するのは主谷の南斜面の中程に切れ込んだ「不動谷」という支谷の奥にある滝峯不動尊の存在だ。そこは三方原台地の伏流水が吹き出す地点で、三メートルばかりの高さから涸れることなく落ちる水(滝)は、現在も水垢離〔みずごり〕の行場として利用され、やがて主谷の流れに合流し都田川に流れ込む。そこに「滝の谷」という主谷の通称地名が由来することを物語る。」
「都田川流域でも、銅鐸の埋納が「滝の谷」に集中するわけは、そこが地域の象徴的な水源として観念されたがゆえと思われる。滝峯不動尊の滝は、銅鐸を埋めるという行為の背景にある古代人の思考をあぶりだしてくれる。」


滝の谷から出土した銅鐸は、弥生時代の岡の平の人々が埋めたのではないかと考えられていますが、それがこの場所だったのは豊かな水が湧いたのが理由ではないかとのことです。

辰巳和弘氏はさらに、都田川流域において引佐町では銅鐸の出土がないのに対して、古墳時代前期の天白磐座遺跡の岩群れで地域の稲田を潤す灌漑の水源をなす井堰の祭祀が行われることに着目しています。
そして銅鐸を祭器とし地霊に働きかける祭りから、巨岩をカミの依代として水源(井・堰)の祭りを行うあらたな地域首長が出現し、それが北岡大塚古墳に始まる井伊谷古墳群に葬られた歴代の首長、古代「井」氏だったとされています。

稲作が始まった弥生時代以降、水利権を握った者が地域を治めたということでしょうか。

確か岡の平遺跡は、縄文時代晩期から弥生時代そして古墳時代にかけての複合遺跡でしたが、その時代の流れのなかでの信仰の移り変わりはとても興味深いものがあります。



  


2015年11月30日

しだみこちゃん・埴輪氏武


地元開催ということもあって、出世大名家康くんが念願の天下統一を果した「ゆるキャラグランプリ2015 in 出世の街 浜松」に出かけました。


清き一票を!

エントリー数1727、当日参加したゆるキャラだけでも300体ともう何がなんだかよくわからない状態でしたが、ご当地の歴史をテーマとしたキャラも多く、それなりに楽しめました。

その中でとくに気になったのがしだみこちゃん・埴輪氏武
名古屋の歴史の里 国史跡 志段味古墳群のゆるキャラですが、古墳群のガイドやこども向けのぬり絵、マニア心をくすぐるような携帯ストラップまで出していたりとなかなかコアでよかったです。



驚いたのはこれらのゆるキャラは名古屋市教育委員会所属とのこと、古墳群のゆるキャラにこれだけ力をかけられるのはさすが名古屋市といったところでしょうか。
ちなみに、しだみこちゃん・埴輪氏武は総合345位でした。

歴史の里 志段味古墳群、ぜひ行ってみたいです。
  


Posted by まるじゃが at 23:16Comments(0)山辺日記

2015年10月22日

下田市・洗田遺跡


伊豆の下田市に行く機会があったので洗田(せんだ)遺跡を訪ねてみました。


ここは昭和のはじめに丘陵上より古墳時代の祭祀遺物が発見され、元國學院大學教授の大場磐雄氏が神道考古学を大成させる原点となった遺跡として有名で、一度は訪ねてみたいと思っていました。

現地には説明看板もなく、近所の方に伺っても詳細な場所がわかりませんでしたが、丘陵上とのことなのでおそらくここだろうと目星をたてて写真を撮りました。後で調べたら当っていたようです。

振り返ると神奈備型の三倉山が正面にそびえます。


『下田市史 資料編一』には、「調査を実施した大場磐雄は、出土した祭祀遺物が大和の三輪山周辺で発見される遺物に極めて類似していることや、三輪山に似た神奈備型の山容を見せる三倉山の存在、また、この地に残る賀茂の地名などから、伊豆は、古代に大和から移住してきた鴨族によって開拓されたという学説をたて、学会に発表した。」とあります。

この周辺には古代の遺跡が集中していて、三倉山側の丘陵斜面にも大賀茂遺跡という縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良・平安時代の複合遺跡があります。

洗田遺跡の祭祀遺物は古墳時代のものですが、最初に三倉山を祭祀の対象としたのはいつの時代だったのでしょう。



  


Posted by まるじゃが at 23:56Comments(0)旅日記古墳と神社の関係伊豆

2015年09月30日

火穴古墳


浜松市西区深萩町の火穴(ひあな)古墳を訪れました。


この古墳は、もともと直径22m、高さ約4mと推定される円墳で、6世紀後半このあたりで最も勢力のあった人の墓と考えられているそうです。

墳丘が削られ露出している横穴式石室が赤い石でできており、これが火穴古墳の命名の由来のようです。


地図では三方原台地の西縁近くだったので、きっと浜名湖を見下ろす位置にあるのだろうと踏んでいたのですが、いざ現地に立ってみると台地上の平坦な場所にポツンとあります。

ただ、西方向にある神奈備型の根本山が、何やら意味ありげです。


かつてはこのあたりから根本山の麓にかけて200から300基の古墳があったそうで、もしかしたらここは以前書いたような他界(葬地)だったのかもしれないと思いました。

あとで調べてみたら、6・7世紀の三方原台地南方から浜名湖東岸の人達の墓域は根本山周辺に設定されていたという説があるようです。(浜松市文化財ブックレット1 「浜松の古墳めぐり」)




  


2015年08月31日

岡の平遺跡


浜松市博物館の「浜松の縄文時代」を見学していたら、気になるものがありました。


浜松市北区細江町の岡の平(おかのひら)遺跡から出土した石棒です。

岡の平遺跡は、都田川下流の平野を望む段丘の上に立地する縄文時代晩期から弥生時代そして古墳時代にかけての複合遺跡で、縄文時代のムラがあったとみられる丘の一部分が都田川の平野に向かって出っ張ったところに石棒は立てられていたそうです。

さっそく現地に出かけてみました。
石棒遺跡を前にして北側の平野を眺めると、その向こうには三岳山の姿を望むことができます。


また遺跡の南側の滝峯の谷からは銅鐸が出土し、弥生時代の岡の平の人々が埋めたのではないかと考えられています。

私が気になったのは、以前古墳と神社の関係で書いた疑問、古墳や神社が細長く突き出る丘陵の先端にあることが多いことと関係があるように思えたからです。

実は前回の「古墳と神社の関係」からいろいろな仮説に出会ったのですが、いかんせん根拠の乏しい時代の話ですからなかなか腹に落ちるところまでいっていませんでした。
しかし今回の展示会で、やはり何か関係がありそうな気がしています。
また何か新しい発見があったら報告します。

ちなみにこの岡の平遺跡も三方原台地の北縁にあたります。
三方原台地の縁…、深いですね。



  


2015年07月31日

甘露寺の中門


浜松市東区中郡町の甘露寺を訪れました。


ここは徳川家康が側室の阿茶の局を伴いたびたび立ち寄ったと伝えられています。

説明看板によると甘露寺は弘仁年間(810-823)に弘法大師によって開創されたといわれ、往時は諸堂のほか塔頭(たっちゅう)十二坊を有する真言宗の大寺であったそうです。
応仁の乱(1467)では全焼し、元治元年(1864)には、中門と楼門を残し消失したとあります。

この地方のお寺が応仁の乱で被害を受けたというのも驚きましたが、この中門は家康が訪れた当時そのままの可能性があることになります。


今年は徳川家康公顕彰四百年記念でゆかりの史跡が注目されていますが、実際に当時の建造物が残っているところはあまり多くはないのではないでしょうか。





古式の技法がこらされていながら簡素な造りをながめていると、まだ若き家康がくぐったのに相応しいような気がしてきました。
  


Posted by まるじゃが at 23:24Comments(0)遠江

2015年06月30日

「はままつの渡来文化をたずねて」


去る6/13、浜松市浜北区のつみいしづか広場他で開催された「はままつの渡来文化をたずねて」に参加しました。


このイベントは二本ヶ谷積石塚群の史跡整備10周年と浜松市文化財ブックレット9 「はままつの渡来文化と埴輪群像」刊行を記念して開催されたものです。

早速ブックレットも購入しましたが、いままでこのブログでご紹介してきた二本ヶ谷積石塚群 静岡県史跡指定記念企画展(前編)(後編)≪シンポジウム≫ 狐塚古墳と倭の五王の時代を集大成したような内容になっていました。

当日は、これらの事業を進めてきた浜松市文化財課の方から以下の解説がありました。
・つみいしづか広場にて、二本ヶ谷積石塚群を見学
・史跡周辺を歩きながら、見返り鹿の埴輪の出土した辺田平古墳群(消滅)を紹介
・稲荷山古墳~赤門上古墳の見学と市内の渡来系文物の紹介

浜松市浜北区から東区にかけては全国的に見ても渡来系と考えられる史跡の密度が高く、なかでも東区の恒武遺跡群からは日本列島の中でも古い段階の須恵器がまとまって出土しているそうです。
これは当時の倭王権が天竜川流域の開発のため、治水技術を持った渡来人を配置したためではないかとのことでした。
渡来人との関係について解明がさらに進むことを期待したいと思います。

個人的には歩き慣れた地域でしたが、すでに消滅してしまった古墳のあった場所が確認できたのも収穫でした。
  


2015年05月31日

春日井市・味美二子山古墳

愛知県春日井市の国指定史跡・味美二子山古墳を訪れました。


味美二子山古墳は、庄内川右岸の段丘末端に立地する墳長94mの前方後円墳で、6世紀前葉の築造と推定されています。

この古墳が興味深いのは、同じ時代に築造された名古屋の断夫山古墳、そして大阪・高槻の今城塚古墳とほぼ5:8:10の相似形をしていることです。(断夫山古墳:152m、今城塚古墳:190m)

これは尾張北部の味美古墳群の勢力と、今城塚古墳の主と考えられている継体天皇と外戚関係にあり、安閑・宣化天皇を生んだ尾張氏が婚姻などを通じて同盟し、尾張氏の下に実質的な統合があったからと推定されているそうです。

味美二子山古墳では周溝の外側から大量の埴輪が出土してしていますが、これも今城塚古墳と共通する特徴として注目されています。


個人的には、たまたま訪れた古墳につながりがあってなんだか不思議な気分でした。

ここは味美二子山古墳をはじめ白山神社古墳、御旅所古墳という3つの古墳に囲まれたエリアが二子山公園として整備されています。


公園内は遊具や水遊び場に加え、ハニワの館という展示・休憩施設があり古墳について学ぶことができます。


またオブジェ達もちょっといい味を出しています。


今城塚古墳もそうでしたが、地元の方が興味と親しみを持てるような空間はうらやましい限りでした。
  


Posted by まるじゃが at 22:55Comments(0)旅日記尾張

2015年04月10日

≪シンポジウム≫ 狐塚古墳と倭の五王の時代


3/28 浜松市文化財課主催のシンポジウム「狐塚古墳と倭の五王の時代」(@引佐健康文化センター)に参加しました。

狐塚古墳は浜松市北区細江町の浜名湖を望む丘陵地に5世紀前葉に築かれた古墳で、2011年に発掘調査をした結果、一辺22mの二段築成の方墳で葺石と埴輪をそなえることが判明したそうです。
また浜松市内で最古の埴輪が出土したり、副葬品として鉄製の短甲(よろい)が採集されています。



同時期の遠江地域には全長110mの前方後円墳である堂山古墳(磐田市)が存在し、その周囲にも方墳を陪冢(ばいちょう)として巡らしていることから、狐塚古墳の被葬者像については、地域の首長としての性格に加え、堂山古墳の築造主体を軍事面で補佐し、浜名湖を通じた海上交通網と浜名湖北岸の陸上交通網を掌握した人物が想定できるとのことでした。

また狐塚古墳には、近畿地方中枢部からの技術供与がうかがえる先進的な埴輪が導入されていることや、大和王権や地域の盟主的勢力との軍事的関係を示す鉄製甲冑が副葬されていることから、遠江の王にとって大事な存在であり、かつ大和政権にとっても重要な人物であったのではないかということです。
例えば朝鮮半島の動乱に際した出兵や東国支配の援助などの功績の可能性が指摘されていました。

同じ時代という切り口でこの地域の古墳を俯瞰してみると、当時の権力構造や社会情勢が浮かび上がってきて想像が膨らみます。
今後、別の時代についてもぜひ掘り下げてみたいなと思います。
  


Posted by まるじゃが at 08:00Comments(0)山辺日記遠江三方原台地の縁

2015年03月25日

御陣屋川の早咲きの桜




御陣屋川の桜です。
毎年必ず同じ桜のひとつの枝だけ他より一週間程早く咲きます。

不思議です。。。
  
タグ :御陣屋川


Posted by まるじゃが at 07:30Comments(0)遠州山辺の道内野山辺日記

2015年02月19日

萱垣稲荷初午大祭


2月11日、浜松市中区の天林寺境内にある萱垣(かやがき)稲荷の初午(はつうま)大祭「稲荷楽市」に出かけました。


境内では、地場産品の販売やフリーマーケット、福引、甘酒サービス、宗徧流奉納茶会に加え、大道芸、バルーン・アート、ハーモニカなどの音楽演奏披露など、ちょっとレトロでまったりとした時間が流れていました。


ちなみに初午とは2月最初の午の日のことで、稲荷社の本社である伏見稲荷大社のご祭神である稲荷神が伊奈利山に降りたのが和銅4年(711)2月の初午だったから、この日に全国でお祭りを行うようになったのだそうです。

ところでここ萱垣稲荷に林立する赤い幟に「萱垣稲荷荼枳尼真天」とあります。


これが気になったのでちょっと調べてみました。

萱垣稲荷は、大正から昭和にかけて境内で茶店を営んでいた新村源七と有泉とめのという信心深い二人が、信濃国下伊奈郡鼎村字萱垣(現長野県下伊奈郡鼎町)の願王寺に祀られていた萱垣稲荷を勧請したものだそうです。

また荼枳尼真天(だきにしんてん)とは、稲荷神が仏教における荼枳尼天(インドの女神ダーキニー)と習合されたもので、神仏分離のもと豊川稲荷を代表とする仏教寺院で祀られているとのこと。一方、神道の稲荷神社では日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま)などの穀物・食物の神を主祭神としています。

お稲荷さんと言えば狐ですが、これは狐の古名が「けつ」で宇迦之御魂神の別名の御饌津神(みけつのかみ)に「三狐神」と当て字したのが始まりで、やがて狐は稲荷神の使いになりました。そして荼枳尼天は死者を食らうという狐との共通点により稲荷と習合したとも言われています。

つまり、稲荷神 ⇒ 宇迦之御魂神(=御饌津神) ⇒ 狐 ⇒ 荼枳尼天 ということになりますか。

なるほど…、面白いですね。

この天林寺があるのも三方原台地の東縁です。
  


Posted by まるじゃが at 00:17Comments(0)山辺日記遠江三方原台地の縁

2015年01月31日

浜松市市民ミュージアム浜北 歴史資料館(後編)


ずいぶん間があいてしまいましたが、浜松市市民ミュージアム浜北の歴史資料館常設展レポートの最終回です。
引続きパネルの説明をかいつまんでご紹介します。

古代:
7世紀後葉の白鳳期から平安時代にかけてこの地域では窯業が盛んだったようです。
まず、7世紀後葉に赤佐地区於呂で篠場瓦窯(しのんばがよう)跡で瓦の生産が開始されます。瓦生産は奈良時代にも継続して行われ、東ノ谷(ひがしのや)瓦窯跡からも奈良時代中葉の瓦が出土しています。

東ノ谷瓦窯出土の丸瓦

平安時代に入ると、麁玉地区の宮口で、灰釉陶器(かいゆうとうき)が生産されます。
9世紀後半に操業を開始した吉名(よしな)古窯跡支群をはじめ、大屋敷(おおやしき)・譲栄(じょうえい)・新池(しんいけ)古窯跡支群があり、宮口古窯群を形成しています。吉名古窯で生産された灰釉陶器は敷地郡衙(ふちぐんが)(中区伊場遺跡)、遠江国府(磐田市見付端城遺跡)へ供給されています。

吉名古窯跡群5号窯

また、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字5年(761)7月19日の条には、麁玉河(天竜川)が氾濫し堤防が決壊したため、多くの人を動員して修築したと記されています。この堤防が天宝堤として、道本(どうほん)に残されています。

中世:
12世紀には、伊勢神宮の荘園の美薗御厨(みそのみくりや)が設けられました。美薗御厨は広さが500町歩(約495ha)あり、南は東区上石田、北は西美薗、西は内野、東は東区笠井と長上(ながかみ)郡の43村の範囲だったという説があるそうです。

鎌倉時代の12~13世紀には勝栗山墳墓群に多くの墳墓が築かれて蔵骨器(ぞうこつき)が埋納されました。この墳墓群は、奈良時代に創建され平安時代から鎌倉時代に権勢を誇ったと伝わる岩水寺と大きな関わりがあると考えられています。

伝浜北区根堅勝栗山出土の陶製五輪塔
愛知県陶磁美術館所蔵(重要文化財)

南北朝時代の西遠江は南朝側の勢力範囲にあり、国人(こくじん)領主の井伊氏は後醍醐天皇の皇子宗良親王を三嶽城(北区)に迎え、北朝側の今川・仁木・高氏と戦いました。三嶽城の支城の大平(おいだいら)城も興国元年(1340)に落城し、南朝側の勢力は遠江においても衰退しました。

近世:
江戸時代のこの地域は、「青山領分絵図」に詳しく描かれております。この絵図は延宝8年(1680)頃、浜松藩主の青山氏によって作成されたもので、天竜川の本流(大天竜)のほか、天竜川の支流(小天竜)や中小の河川が平野を網の目のように流れていたことが判ります。また当時の街道などの道筋を知るうえでも非常に興味深いです。

青山領分絵図

3回にわたったレポートもこれでおしまいです。
この地域にもいろいろ引き出しあることがわかりましたので、個人的に今後さらに掘り下げていきたいなと思います。(おわり)
  


Posted by まるじゃが at 22:49Comments(0)山辺日記

2014年12月31日

赤門上古墳からの日の出



この写真は冬至の頃、赤門上古墳から見た日の出です。

地元の歴史研究家に教えて頂いたのですが、ちょうどこの方角には磐田市の松林山古墳と鎌田神明宮があります。
同じ時代の古墳が冬至の日の出のラインで結ばれているのは単なる偶然なのか、それとも何か理由があるのか非常に気になるところです。

というわけで、今後も気になるテーマを取り上げていきたいと思います(最近はすっかり月1ペースになっておりますが…)。

新しい年もどうぞよろしくお願いします。
  


Posted by まるじゃが at 21:39Comments(0)遠州山辺の道内野古墳と神社の関係

2014年11月30日

宮口・六所神社の御祭神

浜北区宮口にある六所神社の御祭神は下記の様になっています。


底津綿津見神 中津綿津見神 上津綿津見神
底筒之男命   中筒之男命   上筒之男命

これらは海の神ですが、海から離れむしろ山地の南端にあたる宮口になぜ海の神が祭られているのか以前から気になっていました。

ところが最近読んだ浜松史跡調査顕彰会『遠江 十二号』の鈴木清市氏「「有玉伝説」と海人族」という記事にその謎を解き明かす記述がありました。

「確かな資料はないが、荒れ天竜にからんで海上の治安が田村麻呂東征の百年前から問題があった。例えば、七百拾八年に当時の実力者右大臣藤原不比等が勅を奉じて遠江海上鎮護の神として摂津国住吉神社に勧請して式内社津毛利神社を建設しているからである。」
「云うまでもないが、津毛利神社の津毛利族の族祖を祀る神社であって、遠州海上鎮護とは遠州灘や天竜川口を荒らす津毛利海人の海賊行為をもてあまし神人として社領を与へて懐柔したのである。」

つまり古代海上を荒していた津毛利海人族を懐柔するため津毛利神社を建てたということのようなのですが、この津毛利族は坂上田村麻呂に係わる有玉伝説にも関係しているらしいのです。

「「袖仕ケ浦由来の記」にも同様に天竜川を荒らす行為をあげ、問題化したことが述べられている。…赤蛇神は一度の渡海は認めるが二度三度の渡海は認めず転覆したというのである。」
「赤蛇神は船を転覆する人間のあだ名のようである。云うまでもないが、時代が進むに従って、通行人や輸送物資は増加し渡海は多忙となり、一日一度の渡海は二度、三度となる。本来は増船さる可きだが、船が自由にならぬ貴重な時代故、回数をふやした。だが、回数がふえれば渡海関係の労務者はひどい過労になり、不満となり、遂には船への妨害行為となった。それは、船が転覆し破船すれば休めるし、労働条件も改善されるだろうと考えたのだろう。勿論、このゴタゴタを利用して転覆の裏では川中での荷物の横奪があったと思う。彼等がねらうのは米穀其他の公私の物資であり、転覆させ海中で沈んだ荷物を横奪するのである。海人は潜水漁法で魚貝を採取するのが上手であったから、横奪は自在だったのである。」

有玉伝説では赤蛇が渡海を妨げたことになっていますが、これが渡船関係の海人族だったとすればがぜん現実味を帯びてきます。

「この地方の津毛利族は、この阿曇族の別れの末端の族であって、祭神は阿曇民族が祀る底津少童命、中津少童命、表津少童命と津守民族が祀る底筒男命、仲筒男命、表筒男命の六神であり、神社は摂津の住吉神社の分れである式内社津毛利神社であった。」

少童命(わたつみのみこと)は日本書紀の表記で、古事記では綿津見神(わたつみのかみ)と表記される同じ神です。

「津毛利神社は四十六所の総鎮守となっているが、その他にも分れとみられる半田、宮口、奥山、於呂(古代の神体紛失のため不明というが、渡海を生業とする郷であったから海人族とみられる)と各地にも及んでいることによって、この地方に占める古代社会の海人族の勢力が想像される。」

まとめるとこんな感じでしょうか。

津毛利神社 -> 祭神
  ↓        
海人族       ↓
  ↓
有玉伝説 -> 宮口六所神社


古代の歴史は特に地方では残っている文献等が少なくよくわからないことが多いですが、仮説とは言えこれくらい点と点がつながってくれると非常に楽しいです。



  


Posted by まるじゃが at 23:32Comments(0)遠州山辺の道宮口

2014年10月31日

滝峯才四郎谷遺跡

以前から気になっていた「どうたく公園」という看板に誘われて、浜松市北区細江町の滝峯才四郎谷(たきみねさいしろうや)遺跡に行ってきました。 

この遺跡では金属探知機で銅鐸が埋まっていることが発見されたため、充分な体制で発掘調査が進み、銅鐸がどのような状態で埋められたのかが確認できたのだそうで、その様子が復元してあります。


ここ三方原台地北縁の滝峯の谷からは、絵画銅鐸として有名な悪ヶ谷(あくがや)銅鐸をはじめ6個の銅鐸が出土しているとのこと。また谷の入口には銅鐸が使われた頃と同じ弥生時代の遺跡がいくつかあり、ここに住んでいた人々がこの谷に銅鐸を埋めたと考えられています。


いやぁ~、山辺って楽しいですね。
これからももっと三方原台地の縁に出かけてみようと思います。



  

Posted by まるじゃが at 08:00Comments(0)山辺日記遠江三方原台地の縁